one small step

山に登りながらその風景を撮り、これから登山を始める人のささやかな道標となれば良いかなと思い書いています。その他普段考えてる事なども書きます。

あるがまま生きるということ

どんなにドアを叩こうと決して開かない時がある。

文字通り八方塞がりで状況はどんどん悪くなり、

さらに助けを求めて開かずの扉を叩き続ける。

 

40年近く生きている自分も同様に苦しい時代があった。

今振り返れば良い思い出であり良い経験だったと思えるが、

その時は必死でただただ苦しかった。

原因を深く追求することよりも不甲斐ない自分を責めることで

考えることを放棄していたんだなと今ならよく分かる。

 

当時、医師である友人が主治医となってカウンセリングをしてくれていたのだが、

彼の見立ては「著しく低い自尊心」が原因であるとのことだった。

自尊心というものをしっかり理解していなかったので、

プライドはちゃんとある!と抗議したのだが、プライドと自尊心は違うと。

自尊心とはありのままの自分を丸ごと受け容れることだと言う。

「出来ないこと、ダメなところも含めて自分であるということを許容する」

それはとても難しいことだった。

 

子供時分から両親に厳しく育てられてきており、

彼らの言う「良い子」の条件を満たさない場合は叱責や体罰を受けたし、

いつも機嫌を伺っていないと被害が及ぶので、自ずと自己評価は低いままだった。

なので常に他人の評価が気になるし、他人の意に沿うように、

もしくはそう出来ない場合は拒絶するようにして自分を守っていた。

プライドだけを肥え太らせ、結果生きづらさを抱えて、

人との関係も健全なものを形作れなかった。

 

カウンセリングの最中にこういった自分の生い立ちを把握するにつれ、

自立してから疎遠になっていた両親に対しての憎しみがさらに募っていった。

そこで友人に言われたことは今でも印象に強く残っている。

「怒りの感情は持ち続けている限り、自分だけその場所から動けない。

怒りを手放すことによって初めて、自由になれる。

両親も自分達がそう育てられてきて他に子育ての方法を知らなかっただけ。」

 

子供にとっては自分の親兄弟が世界の全てて、比較対象が少ないので

ずっと、自分の家族はどこにでもいる家族だと思っていた。

大人になってたくさんの人と交流していく中で、

自分の家庭が機能不全家族であることを知ったり、

また意外にも自分に似た境遇の人が多いことも知った。

そしてそう言う人々は皆、同じように生きづらさを抱えている。

 

あるがままに生きるということは、自分が目を背けていた自分の醜い面に

嫌でも向き合わなくてはいけない苦しい作業であると思う。

ただ、その過程を経ると長年の苦痛から結果解放されていく。

大きな痛みというものは逆説的だがその痛みを十分に味わい尽くす方が

治りが早いのだろう。

今以て自尊心を高く保つには努力が足りていないと感じることが多いが、

あの頃に比べればずっとマシになっていると思う。

 

世界から打ち棄てられたような気分の時くらいは、

自分で自分を精一杯甘やかし、褒めそやしても良いのだと思える。

悲しい出来事を存分に堪能して、そこから推進されるのであれば、

どんなことも良い経験でしかないではないか。

 

出来ないことを数えるよりも、今日出来たことを讃えよう。